CWの思い出
オヤジは、アマチュア無線は電信級とやらで、小中やったけど、業務資格が取れて某「お〇さかしょうせん〇ついせんぱく」で、突然の国際航路の見習い通信士になった(短い期間だったけど)。
当時の総通のCWの送信試験では、記憶が定かじゃないが、エレキーもOKだったと記憶している。
早いCW送信の試験、縦ブレ電鍵を何処かのメーカーに特注したことも覚えてる。
ずっしり重い、大理石(本物:石を、自分で会社に持参した)で作って貰った。高かったけど、これで、受験が苦しいと逃げることは出来ないと、自分を追い込み、梯子を外したことを覚えてる。
次の試験(当時は、6か月毎、年2回)で、CWの試験に落ちると、科目合格していた他の2~3科目も消えてしまい、受験し直しでこれは気の遠くなることだった。
そんな訳で、自分を追い込む為、親に頼みこんで帝国ホテル1週間滞在、最後の日が試験。
ま、これも、自分を追い込む為の方策だが、父には、法外な宿泊費を出して貰った。(-_-;)
さんふらんしすこ丸 3万トンの貨物船
神戸摩耶埠頭、タクシーを降りると、オヤジの初航海(通信のアプレンティスト)で、お世話になるクルーの皆さん母船が待っているらしい・・・。
受験勉強で、運動不足、この長いタラップを駆け上ることができるか心配になったが、学校の教授には、「駆け上れ!」と、言われていたが、最低限の着替えとか日用品のバッグだって5kgはある。(-_-;)
何とか、駆け上って甲板到着、航海士や機関士、お世話になる通信長などなど、上から見ていたらしい。
やはり、教授の言われた「駆け上れ!」は正しかったようだ。
通信長・次席さんに、憧れの無線室や屋外の空中線などなど、今にして思えば懐かしい短波・長波の空中や、国際VHFなどなどレクチャーを受ける(治すのも自分)。
通信長が夕飯の時間だと言われ、気が付いたら5時間もレクチャーを受けていた。
楽しく、怖い船上生活が始まった。
翌長、通信長と次席さんは、4時間交代を2回すると24時間が終わるシフト勤務だったが、オヤジは、日付変更線位までは、08時から17時まで当直見習(お二人からレクチャー受けられる)を繰り返した。
出航すると、当時は、太平洋・大西洋航路(ニューヨーク往復)だったので、JCS調子無線局に通知を出す(もちろんCWで)。
「本船、神戸からパナマ運河を経由してニューヨーク。復路も同じ予定」船長名のカタカナ電報で、そんなことを打った(打たされた)思い出がある。
次席さんから早速、実践の指導。
JCS銚子じゃなくて、沿岸警備隊(どこだか忘れたが、国内の海兵隊、コーストガード?)通信所?)に通知しよう。
確かコールサインは「NBA」だったような。
もう、手洗いして拭かない状態のように手の平は冷汗ビッショリ。
こんなことで、オヤジと通信業務は、始まった。
その当日、500KHz(当時は500Kc)で、救助に関する通信をしていると、05時(船内時計)インターホンで起こされ、着替えて大急ぎで通信室へ。
確か、三光汽船が救助など交信中で、次席さんから、やり取りをすべて日誌に記載するようにとの命。
焦った・焦った。
朝も昼も食わず、気が付けば14時。
通信長からインターホンで、コックさんに連絡。
やっと通信長の許可が出て、お昼ごはんを摂った。船は24時間揺れているので、腹が直ぐ減るので、1日4食だった。
書き出すと、切りがないのでこの辺でサンフランシスコ丸の思い出話は終わり。
恐る恐る「カツミのエレキー」を通信室に持ち込み
縦ブレ電鍵も持参したが、緊張すると電鍵が上手く反応してくれない。
通信長・次席さんも、珍しい弁当箱風の電鍵を見て、しばし、取られてしまい。(汗)
以降は、船を降りて丘勤務当時の話だが、確か、当時のエレキーは、右手用にセットされており、左手・右手の切り替えは無かった(有ったかも)。
GHD パドルトレーニングの動画を拝見
要するに、右手の親指は短点を担当、人差し指は長点を打つ。
オヤジの場合、これを、そのまま左手で練習したので、電信の送受信の受験でも、左手の人差し指は短点、親指は長点を担当。
若い時は、「そんなの、かんけーねーぇ」で、業務をこなしていたが、職場を退職した今、加齢により、膝・脳みそ・お肌も老けてくるが、最近、気が付いたのは打鍵ミスが多いということ。
これも、考えてみれば、手指の老化と言えるだろう。
先日、
CW練習機を作ったので、パドルの左右を入れ替えてみたら、全然打てない。
1時間やっても打てない。やはり、指は指で動作を記憶しているらしい。
そんな訳で、むかしの使い方で、これからもやることにした。